毒親育ちの子育て日記 nano's diary

毒親育ち(夫婦の)妻の子育て日記です。

理不尽な姉妹格差の話①

私と次女Mは2歳差の姉妹です。なので私はものごころついた頃には「姉」で、両親には名前ではなく「お姉ちゃん」と呼ばれていました。

 

同居していた祖父母が初孫である私をとても可愛がってくれていたのですが、それが面白くなかった両親は祖父母に対抗するかのように次女Mを可愛がっていたのかもしれません。

 

私の誕生日にはなぜかMの分までプレゼントが用意され、ひどい時にはケーキのろうそくを吹き消すのもM。七五三の写真も私と同じように着物を着たMとのツーショットばかり。

 

食べ物や洋服を選ぶ時も常にMが優先で、いつも私はMが選んだ後でした。

 

常にそんな状態なので、Mは私に対してやりたい放題言い放題。すいかを食べるときは、三角に切ってあるてっぺんの甘いところだけをかじって残りは私に押し付けてきたり、ケーキは上のフルーツやチョコだけを食べる。バナナはシールがついている1本だけしか食べず、まだ家にバナナがあるのに「シールのあるやつが食べたい!」と駄々をこねるので残りのバナナを私が食べて親が新しいバナナを買ってきたり。もちろんシールのついていないものは私に押し付けられます。そのせいかいまだにバナナは苦手です。

 

祖父母も軽くいさめることはあってもなぜか止めることはなく(一度だけMがいちごの粒をとってほしいと言った時、あまりの面倒くささに祖母がブチ切れたことはありました)、たいがいのわがままは通ってしまう状態でした。

 

今思うと、祖父も祖母も兄姉がいる弟妹で、妹の気持ちに寄り添ってしまっていた面が大きかったのかもしれません。

「生理の貧困」私の場合

「生理の貧困」がしばらく前から議論されていますね。

 

私も学生時代生理に関する様々なことに悩んできたので、こうやって取りざたされて自治体や学校が動いてくれていることがとても嬉しいです。

 

私の初潮は小学6年生の時でした。夏休みに教会学校のキャンプに参加していたときにきてしまい、半泣きになりながら女性の先生に相談すると、すぐにナプキンを用意してくだり、つけ方を教えてもらいました。そして、家にも連絡してくださったみたいで、帰宅してすぐ母に連れられてサニタリーショーツを買いに行きました。買い物中、母は何も教えてくれなかったのでとりあえずサイズだけ見て選びました。キャンプ中になってしまった時は「最悪だ…」と思いましたが、自宅でもしなってしまっていたらきっとナプキンのつけ方もわからず困り果てていたと思うので不幸中の幸いでした。

 

私は1~3日目までの経血量がとても多く、加えて中学では体育系の部活に所属していたのもあって、羽つきの多い日タイプのものじゃないとすぐもれてしまっていました。

 

しかし、羽つきはなしのものより割高で、なおかつ家族で羽つきが必要なのが私だけなのもあってなかなか買ってもらえず、あまりに量が多い時はティッシュやトイレットペーパーで横をおさえることもありました。

 

一度親に「羽つきのものを買ってほしい」と頼んだのですが、「これ使ったらええやん」となぜかタンポンを渡され、頑張ってみたもののうまく装着できずその旨を伝えると「せっかく買ったのに無駄になった」と怒られました。

 

 

痛みは2日目が一番きつく、うずくまって動けなくなるときもあったのですが、高校を卒業してアルバイトを始めるまで鎮痛剤はほとんど飲んだことがありませんでした。

 

 

食事と料理と私の話②

前回の話食事と料理と私の話① - 毒親育ちの子育て日記 nano's diary

 

 

「ご飯抜き」がとても効果的な罰だと父が気づいてしまったので、そこからはことあるごとに食事を抜かれるようになりました。

 

前にも書きましたが、最長は1週間。給食がなければやばかったですね。

「ご飯抜き」4日目ぐらいに、同じ登校班の1年生のお母さんに会った時、

「え、どうしたのAnnaちゃん!?なんかげっそりしてない?」と声をかけられその場で泣いてしまったこともありました。食事を与えてもらってないことを言うのは恥ずかしくて、体調が少し良くないとその場はごまかしたのですが、今思えばそこで言う勇気があれば現状を変えられたかもしれませんね。

 

中学にあがると、ちょうど三女Nが幼稚園に入園し、お弁当が必要になったので自分の分とNの分を作るようになりました。母が料理をすると野菜などが中途半端に残っていることが多かったので、冷蔵庫の中を見て食材を組み合わせるのが楽しかったです。茎の部分だけ使って葉だけ残っているセロリや、瓶にほんのちょっぴり残った鮭フレークやなめたけ、コップ1杯分も残っていない牛乳などを組み合わせて2人分のお弁当を作っていました。

次女Mとは2歳差なので中3の時にMが入学して全員弁当だったのですが、母が作るのを待っていると登校時間が遅くなるし、待っていても作ってもらえないこともあるので結局卒業間近まで、6時半までに私が自分と三女Nの分を作り、その後起きてきた母が次女Mの分を作るという奇妙な状況でした。ちなみに次女は「姉ちゃんの作った弁当とか絶対嫌」と言っていたので次女の弁当を私が作ることはありませんでした。

 

 

食事と料理と私の話①

私は食べるのことがわりと好きです。私を可愛がってくれた父方の祖父は、「ボロを着てても美味しいものを食べる人生のほうが幸せだ」とよく言っており、食べ物にはお金を惜しまないタイプの人でしたので、幼少時はそれなりに良いものを食べさせてもらっていました。祖母も健啖家で料理上手だったので家のごはんも美味しく、特に玉ねぎをじっくり炒めて甘みたっぷりのカレーや、サクッと衣が仕上がった天ぷら、味がしっかりと染みたなすやじゃがいもの炊いたん(煮物)、牛すじがとろとろのおでんなどが大好きでした。

 

しかし、祖父母と別居するようになると台所を牛耳るのは、マンガを読み出すと過集中で周りがみえなくなる母。煮物を作り始めたことさえ忘れて鍋が真っ黒になるまで気づかないような人です。さらに別居して半年後に妊娠が発覚。つわりでキッチンに立つのもしんどくなり、食事はレトルトや惣菜が並ぶようになりました。

 

 

…しかしこの頃はまだ良かったのです。食べるものがあって、それを食べることが許されていましたから。

 

母が安定期に入り、年齢もあって予定日前に入院することになったため、私が食事の支度をするように母に言われました(当時私は小学3年生)。

その時に母が教えてくれたのはなぜかスクランブルエッグの作り方のみ。

 

心配した祖母が毎日のようにおかずを作ってくれて、帰宅した父が車で10分の祖母宅まで取りに行くようになりました。

 

母が入院中は祖母のおかずとレトルト、スーパーの惣菜でなんとか乗り切ったのですが、また退院後が大変でした。

 

母が中途半端に料理を作ろうとして挫折したりするので、妹Nのミルクを作りながら片付けをしたり、母が作りやすい段取りを整えたりするようになりました。

 

おかげで料理をする段取りなどは実地で学べたというか、学ぶしかなかった…という感じだったんですが、その頃から、怒られた後の罰則に「ご飯抜き」を言いつけられるようになりました。

 

何がきっかけだったかは忘れてしまいましたが、初めての「ご飯抜き」は3日ほどでした。ちょうど土日をはさんだので給食もなくてとても辛く、日曜の夜にやっと食べさせてもらった時は号泣してしまいました。今思えば、そこで私がとても辛い思いをしたことを父に悟らせてしまうような行動をとってしまったことで、「ご飯抜き」が効果のある(私を苦しめることができる)罰だと父に知らせてしまったのが失敗でした。

母と私(そして父)の話③

前にも書きましたが母は貧血が酷く、専業主婦で家にいてもずっと寝ている日も多かったため、小学校高学年くらいから、どんどん私の家事負担が増えていきました。

 

 

 洗濯や風呂掃除、食器洗いと片付けはやって当たり前、時には食事の用意も私の仕事でした。

 

持病があるとかだと、また事情も変わったのでしょうが、母方の祖母の話を聞くに、長年積もりに積もった偏った食生活からくる貧血や生理不順のようで、「しんどい」「なにもできへん」「寝かせて」などといわれても正直まったく母を思いやる気持ちがでてきませんでした。

 

母の主食はポテトチップスとチョコレートとコーラ。お腹がすくとごそごそと起き出してストックしてあるこれらを時間関係なく食べていました、祖母から聞いた話だともともと偏食で、高校生くらいからスナック菓子やジャンクフードを食べる頻度か劇的に増えたとのこと。就職してからも食生活は変わらずで、職場で貧血をおこして上司にタクシーで家まで送ってもらったことも1度や2度ではないそうです。

三女Nが卒乳してからはお酒を飲む量も増え、不摂生まっしぐら。買い物先のスーパーや図書館で倒れ。父がかけつけるということもありました。

 

その時、父に怒られるのはいつも私でした。

「なんでお母さんにこんなに無理させたんや!」

「妹見ながら、荷物を持つのはお前の仕事やろ」

反論でもしようものなら

「やって当たり前のこともできてへんのにえらそうに意見するな!」

と2時間以上正座で説教。当たらないよう加減はされていましたが、物が飛んでくることもありました。

 

お酒や缶コーヒー、ジュースなどは箱買いすることが多く、また図書館行くときも自分の借りた本はもちろん妹の本も私が持つのが当たり前で、両手いっぱいの荷物を抱えながら未就園児の妹Nと手をつなぐor抱っこしてたので(私が抱っこする前提なので抱っこ紐なんてありませんでした。てか抱っこ紐の存在すら当時は知らなかった)、大人である母の様子なんてみる余裕ありません、というかそもそもなんで小学生の私が母の面倒見なくちゃいけないんだって話なんですけどね。

 

ですが、父にとって一番大事なのは母であり、その母を少しでも苦しめる私はただただ憎い相手だったんだと思います。

思春期に私をささえてくれた親以外の大人たち ③司書さんたち

親の言うことが聞き流せず、かといって全部従えるわけでもない。収入もなく自由もない中学生の時は、今思うとかなりのストレスを抱えていたと思います。

 

そんな中学生の私でしたが、家族以外の周りの大人には恵まれていた時期でもありました。

  • 中学1年の時の担任 K先生
  • 9歳から20歳まで通ったピアノ教室のM先生
  • 放課後市立図書館に入り浸っている時、話を聞いてくれたり、色んな本をすすめてくれた司書さんたち

 

母性父性どちらにも飢えていた私が変にいじけて道を踏み外さなかったのは、多感な時期、この人達にたくさん甘えさせてもらったからだと思っています。

 

前回の話

anna718.hatenadiary.jp

 

 

司書さんたち

もともと読書が好きで、幼稚園児の頃からよく図書館に連れて行ってもらっていました。小学校区内に市立図書館がなかったので、親に連れて行ってもらわないと行けなかったのですが、中学生になると、下校時に寄れる立地に図書館がありました。部活もしていたのですが、他の部活との体育館利用の兼ね合いで休みの日があったり、冬場は最終下校時刻が図書館の閉館より1時間近く早かったこともあって週3以上通っていました。

 

制服で頻繁に通い、毎回10冊近く借りていたこともあって中1の夏休み前には司書さんたちにすっかり顔を覚えられ、世間話をするようになりました。部活が一緒の友人やや、図書館で待ち合わせしていた友人と一緒にその日の面白かった出来事や、学年の先生たちの話など、中学生のとりとめもない話を業務の合間に(話しながらも司書さんたちの手はずっと動いてる)たくさん聞いてもらいました。

もちろん他の利用者の方もいるので、邪魔にならないようには注意してたんですけど、ついつい話が盛り上がり、大きな声を出してしまったりしたときは友人共々、司書さんに図書館から引きずり出されがっつり怒られたことも…。

 

また、中学生になってそろそろ児童書から大人向けの小説を読みたいと思っていた私にたくさんの作家さんの本を紹介してくださいました。

最初におすすめしてもらったのは、石田衣良さんの「池袋ウエストゲートパーク」シリーズ。がっつりはまり、当時の既刊を一気に読みました。そしてその後読んだ「ブルータワー」が最高すぎてやばかったです(語彙力)。「娼年」も中学生の時ドキドキしながら読みました。読んだことのある漫画や小説の実写化は少し苦手なので、映画や舞台は見ていません。

 

次が村山由佳さんの「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズ。当時はシーズン1しかまだなかったのにこちらも一気に読了(2021年現在、シーズン2も完結しましたが、読み終わるのがもったいなくて実はまだ最終巻読んでないです…)。

天使の卵」シリーズも好きで何度も読み返しました。あと、「すべての雲は銀の…」個人的にかなりささったのですが、この辺から(「作者、年下男子×ちょっとわけあり年上女子めっちゃ好きだな…!」)と気づきました(笑)。

 

そして中3の時に教えてもらったのが、有川浩(ひろ)さん!当時「図書館危機」までしか発売されておらず、その年に「図書館革命」が発売されたときは、「早く予約しとき!」と司書さんに言われ、入荷前に予約しといたおかげでわりと早めに読めました。そしてすぐ返しに言って司書さんたちと語りました。

 

 

他にも辻村深月さん、伊坂幸太郎さん、有栖川有栖さん、中山七里さんなど、私の好きな傾向をみながらたくさんの作家さんの本を紹介してもらいました。

 

中学を卒業した後もちょこちょこ図書館に行っては司書さんたちとお話ししてはいたのですが、中学の頃が一番読書していたし、司書さんたちとも話していましたね。高校以降はなかなか読書時間もとれなくなっていきました。

 

退職された司書さんもいますが、新しく仲良くなった司書さんもいて、今でも図書館に行く度、貸し出し手続きの合間に少しお話したりしています。

 

ナノさんを出産したときも、退院1週間後の検診の後、少しだけ図書館に寄りました。あまり新生児を外出させてはいけないのはわかっていたのですが、産院が図書館の近くだったこともあり、ちょっとだけと思って顔を出すと、私のことを中学生の頃から知ってる司書さんの一人が駆け寄ってきて「無事に生まれたんやねー!!」と少し泣きながらめちゃくちゃ喜んでくださりました。その後、ナノさん生後3ヶ月以降は抱っこしてもらったり、おすすめの絵本を教えてもらったりしていました。

最近はコロナ禍でみんなマスクをしている為、ナノさんの人見知りが加速してしまったのですが、司書さんたちのことはしっかりと個人として認識しているみたいです。「まえ○○の本おしえてくれたひとだねー」などと私に教えてくれます。

 

 

母と私の話②

 私の中で母を頼れる「大人」として見れなくなった一番の事件があります。

 

小学4年か5年のときだったと思うのですが、冬のある日、イオンシネマへ映画を見に行きました。

2本立ての映画で短編の方は三女N(当時2歳くらい)も楽しめそうとのことで姉妹三人で映画を見て、その間母は一人で買い物をする予定でした。

 

途中Nが少しぐずったりもありましたが、おおむね平和に見ることができて映画館から出てくると、そこには座り込んで号泣する母の姿が。

「ごめんねぇ…Nちゃんのくまちゃんどこかでなくしちゃったぁ…」

 

小さい頃、Nがどこへ行くにも離さず持ち歩いていたくまのぬいぐるみをイオン内で落としてしまったと言うのです。

 

なかなか泣き止まない母をなだめすかして手をひき、くまがいないことに気づいて不安がるNを抱っこし、早く帰りたがる次女Mを説得しながらイオン内を探すこと1時間。清掃の方が拾ってくださっていたことが判明し、くまは無事に帰ってきました。

 

帰宅後、父に話をすると

「見つかって良かったな。お母さんも大変やったなぁ、3人連れて映画は」

と言われ呆然としたのを覚えています。

 

Nのミルクや離乳食を作っていた頃から、母には頼れないと薄々思ってはいましたが、この事件が、母に対して何も求めてはいけないと思う一番のきっかけでした。