毒親育ちの子育て日記 nano's diary

毒親育ち(夫婦の)妻の子育て日記です。

心がささくれ立つ毒親のひとこと

 

ふとした瞬間に思い出してしまう両親に言われたことばたち。

 

「食べ方が意地汚い」

「どうしてこんな風に育ったのか」

「親の言うことが聞けへんのに社会で生きていけるわけないやろ」

「お前が味方やと思っているだけで周りの人間はみんなお前のことばかにしてんねん」

「義務教育は中学までやからな。その後は面倒見る義務なんてないねん。いつ追い出してもええんやぞ」

「お姉ちゃんは私が育てたんやないから考えてることわからへん」

「食べ物がもったいないんやない。お前に食わすのがもったいないんや」

「いくら学校で猫かぶっててもこっちはお前がどれだけぐうたらで人の話の聞かへん人間か知ってんのやぞ」

「お前が外で本性隠そうとしても周りはお前がずるい人間やってわかってるぞ」

「食べ方が汚いんやから外で飯食うな」

「人に頭下げてまで金がほしいんか」

「飯のことしか考えられへんとか犬以下やな」

「言われたこともできへんとかお前はペットより頭悪いっちゅうことやぞ」

 

 

食事と料理と私の話④

前回の話

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前にも少し書きましたが、私の食事のルーツは祖父母です。祖母が作る料理と食道楽の祖父が連れて行ってくれる外食が私の食事の原初です。

 

離乳食の段階から祖母が作ってくれていて、引っ越して祖父母と別居するまでは、あまり食事に困ったことはありませんでした。魚は骨をとってもらった状態で出てきたし、おかずは子どもの小さい口に合うサイズで準備されていて、ご飯はやわらかく炊かれていました。祖母はお酒が好きだったのもあってか、味付けは甘い辛いがはっきりしていましたが、すっぱいものは少し苦手で酸味が優しいものが多かったです。

 

なので、私がイメージする「おいしいご飯」というのは祖母が作ってくれる私の口に合うご飯だったのですが、母にとってはそうではなかったようです。

 

といいますのも、三女Nが生まれて私が台所に立つ機会が増えると私の作った料理に対して

「ご飯がべちゃべちゃ」

「こんなに小さく切って鳥の餌かいな」

「ぼやけた味の酢の物やな」

などとよく言われました。母至上主義の父ももれなく文句を言ってきますし、私と違って祖母の味より母の味に慣れた次女Mも

「ねえちゃんが作ると味違っていややわ」

とか言ってくるので味方は一人もいませんでした。

 

なので、ご飯の水分は思っているより少し控えめ、酢の物はお酢をしっかりきかせる、野菜を切るときはなるべく大きめといったことを意識して作っているうちにいつしかそうやって作るのが当たり前になっていました。

 

実家を離れて夫と暮らすようになると、夫に

「なんで野菜切るときそんなに大きいの?」

の聞かれ、

「煮崩れしても形が残るように…」

とか答えていたのですが、突き詰めていくと別に好きで大きく切っていたわけじゃないな、ということがわかって最近は前より小さく切るようになりました。

 

ご飯の水加減は夫が固めご飯が好きなのでそのままですが、酢の物は夫が苦手なので優しく仕上げるようにしています。

 

祖父母の味に固執しすぎず、今一緒にいる家族に合わせて家の味を作っていけたらなと思っています。

人に触られるのが嫌だという話

私は人に触られるのが大の苦手です。

 

自覚したのは小学校4年生ぐらいだったと思うのですが、ふとした瞬間に二の腕などの素肌を友達が触れてきたのがすごく嫌で嫌悪感で吐きそうになったことを覚えています。

決してその友達のことが嫌だったわけでもなくむしろ当時はかなり仲の良い子だったのですが、自分が意図してない瞬間に触られると鳥肌がとまらなくなりました。

 

それは中学生になっても変わらず、また思春期で同性の友達との距離感がかなり近くなりやすい時期だったのもあってさほど仲良くない子に触ってこられるのが本当に無理だったので

「汗っかきで自分のニオイが気になるからあまり触らないでほしい」

「貧血で人の体温が少し気持ち悪いから触らないでほしい」

などと色々理由をつけて人に触れられないように自衛するようになりました。

 

地獄だったのが高校の通学時間。満員電車で痴漢が多いと地元では有名な路線に、制服で長時間乗っていたので何度も痴漢に遭いました。次の駅に泊まる寸前に相手の腕を掴んで股間を蹴り上げすぐさまおりるという今思うと非常に危ない技を編み出し撃退していましたが、一度だけ同性に痴漢されたときはどうしたらいいかわからず頭が真っ白になりました。

 

大学生になってからは、身体的接触を好むようなコミュニティに属さなかったのでとても快適に過ごすことができました。

 

夫も私が急に触られるのを嫌がっているのは知っているので、後ろからいきなり触ったりせず、前からわかるように触ってきたり、後ろにいるときは声をかけてくれるので助かっています。

 

ナノさんに対しては今のところ嫌悪感を感じないので、急に触られても平気です。

 

 

急に触られて特に嫌なところは二の腕と首筋なんですが、首筋が一番嫌で、腕が近づいてきただけで嫌悪感を感じるときがあります。

 

そのことを夫に話すと

「Annaの首の嫌がりようはちょっと異常やんね。もしかしたら親に首絞められた過去でもあるんちゃう?」

と言われたのですが、記憶にある限りはされたことないんですよね。

ただ、絶対にないかといわれたら、一緒に寝ていた小2~3の頃とかだとありえなくもないな…とは思います。

実家に住んでいた頃の推しにまつわる話

私は小学生の頃からロックバンドのポルノグラフィティが大好きです。

もう人生の半分以上推し続けています。

 

きっかけは友人が聴かせてくれた「アゲハ蝶」だったんですが、そこからドはまりして出演する音楽番組をチェックするようになりました。

 

しかし家で唯一テレビのあるリビングでは父が寝ており、思うようにはテレビが見れず、まともに見れるのは紅白歌合戦ぐらいでした。

 

また、両親はバンド名が卑猥なのが気に食わず、曲もまともに聴かないくせに文句ばっかり言ってくるのがとても不快でした。

 

たまーに、ミュージックステーションとかうたばんとかHEY!HEY!HEY!とか見れた時も隣で

「別にたいしてカッコよくないやん」

「他のアーティストと全然見分けがつかへんわー」

などとグチグチ言ってくるのが本当に嫌で仕方がなかったです。

 

またパソコンも自由に使わせてもらえないので、図書館のパソコンで公式ホームページをチェックしていました。

 

中学生の間はほとんどお小遣いがもらえず、数少ないお年玉は部活の試合参加費や、ラケット等のメンテナンスにあてていたのでCDを初めて買ったのは部活を引退した中3の夏、アルバム「ポルノグラフィティ」でした。

 

高校生になると僅かながらも収入ができたので、ファンクラブに入り念願のライヴへ。

しかし、私が親の利益になること以外のことをすると必ず反対してくるのが毒親です。

ライヴ後は鍵がかけられ締め出しをくらったり、しばらく「ごはん抜き」だったりといった何らかの制裁を受けました。

 

とはいえやっとライヴに行けるようになったのでそんなことでへこたれる私ではありませんでした。

締め出しをくらったら近所に聞こえるよう叫んだり、夜行バスで遠征して朝帰りしたりと色々抵抗してみました。

 

おかげでロイヤルストレートフラッシュ、愛と青春の日々、FCUW4、PANORAMA×42に参戦することができました。

 

実家を飛び出してからは金銭的にも時間的にも余裕がなくなかなか参戦できなかったのですが、去年の生配信ライヴREUNIONは家で夫とナノさんと一緒に参戦することができてとても嬉しかったです。

 

 

毒親育ちは大人になってから金がかかる

 

なんのお金がかかるかというと自分の体のメンテナンスにですかね。

 

私も夫も、けっこう虫歯があるんですけど親にはほぼ歯医者に連れて行ってもらったことがありません。夫は「歯医者に行ったことがマジでなかった」と言っており、私も親知らずを抜きに行った時ぐらいしか行ってないです。

 

なので大人になってから治療を始めたので結構ボロボロです。夫にいたっては1箇所乳歯のままであることが発覚しました。

 

歯医者は唯一に近い保険がきく予防医療なので、本来であれば虫歯になる前にメンテナンスとして通うのが一番のはずですが、親に連れて行ってもらったことのない私たちは、大人になるまでその観点が全くありませんでした。

 

ナノさんには絶対歯を大事にしてもらいたいので、乳歯の1本目が生え出してから定期的に歯医者に通っています。

 

他にも、夫やどうやら食物アレルギーがありそうな感じなのですが、人生で一度もアレルギー検査をしていません。なぜアレルギーがありそうと思ったかといいいますと、夫の二の腕や太ももには無数の発疹の痕があるんです。

 

ここ数年、スキンケアをするようにしてもらってからだいぶマシにはなってきたのですが、知らない人が見れば何か皮膚の病気なのではないかと疑われるような見た目をまだしているので、夫は夏でも基本的に長袖の羽織り物を着ています。

 

この発疹、外食やパン、パスタなどが多いと増えたりするので小麦か乳製品のアレルギーっぽいんですよね。他にわかりやすい症状があるわけではないのもあって夫はアレルギー検査に行ってくれないんですが、正直1回検査してほしいと思っています。

 

私の場合は他の記事にも少し書きましたがのどです。扁桃腺が大きいままほっておかれたので、体調不良はすぐにのどにきます。最近は不調を感じるとすぐに耳鼻科へ行くようにしているのでだいぶ悪化はしにくくなりましたが、診察代と薬代で毎回3000~5000円はかかります。

 

あと、体のこと以外だと奨学金の返済もありますし、ナノさんのイベントごととかももちろん一切支援がないので夫婦で資金準備します。ほとんど夫が出しますが、私もライターしたりポスティングで微々たる額ですが稼いで出しています。

 

 

 

 

食事と料理と私の話③

前回の話

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高校生になると、郵便局の年末年始の短期バイトをしたり、学校から派遣されて行く有償ボランティアに登録したりして、ある程度の収入を得ることができたので、給食がなくても飢えることはありませんでした。しかし、朝ごはんはもちろん、晩ごはんも用意されていないことはよくあったので、食事量は足りず、体の成長は小学5年生時で151cm40kg、中学2年生で153cm46kg 、身長はここで完全にストップしました。妹2人も私より身長低いので、遺伝もあるかとは思いますが、小学校時はそれなりに高身長だったのが中学でどんどん周りに抜かされ、高校に入ると前から3人以内とかになったのはわりとショックでした。

 

高校を卒業して一浪し、大学に入るのですが、浪人時代に某牛丼チェーンでアルバイトを始めました。従業員割引で食べられるし、給料明細には毎回無料券がついてきたので、10年ぶりぐらいに飢えない生活がここからできるようになりました。ここから大学2年で実家を飛び出すまで、バイト先が私の食生活を支えてくれたといっても過言ではありません。

 

大学2年のGWに当時付き合っていた現在の夫と父方の祖母のサポートを受け、実家を飛び出すと一人暮らしが始まりました。また別記事でここらへんの話は詳しく書くつもりですが、大学近くの店舗に再登録してもらって牛丼屋バイトをしばらく続け、コンビニの早朝バイトもかけもちすることとなりました。

 

自炊して生活費を切り詰めながらも毎日3食自分の意思で食べられることに感謝する日々でした。

理不尽な姉妹格差の話②

前回の話

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理不尽な姉妹格差は祖父母と離れて暮らすようになってからも続きました。

 

とはいえ収入も減り、住宅ローンも抱えたこともあってか、私のイベントに妹も乗っかるということはなくなり、私の誕生日などがグレードダウンしました。小学2年のクリスマス以降、ハリー・ポッターの新刊が出た時に買ってもらう以外のプレゼントは滅多になくなりました。小学6年のときにCDコンポを買ってもらったのが最後だと思います。中学以降はプレゼントもらってません(妹Mは私が知る限り高校卒業してもなんやかんやとプレゼントはあった)。

 

私がピアノを習い始めた2年後、妹Mが同じように習うことになったのですが、私がいくら頼んでも練習環境を整えてくれなかったのに、妹が習い始めた1週間後、キーボードが我が家にやってきてそれは当たり前のように妹の部屋に運び込まれました。妹はピアノがやりたかったわけではなく「姉ちゃんだけやってるのずるい」という理由で始めたのに、なぜ真剣にやっている私の練習環境は整えてもらえないのに妹は自分の部屋で好きなだけ練習できるんだろうと初めて妹が憎くなったことを覚えています。

 

 

そしてもうひとつ、妹Mが憎く感じてしまった事件があります。

 

私が小学5年のときのゴールデンウィークに、某遊園地へ家族と遊びに行きました。三女Nがコップ飲みできるようになってすぐだったので、可愛いコップを見つけたら買ってあげる約束をNとしていて、お土産屋さんで小さなピンクのコップをお小遣いで買ってあげたりして楽しく過ごしていました。

 

しばらくアトラクションで遊んでいたのですが、室内迷路のアトラクションで、ゴールした人にランダムでプレゼントが当たるという企画をやっており、1等が可愛い豚のぬいぐるみでした。それをみた次女Mが「あれほしい!」と言い出したのです。

 

しばらく家族全員でアトラクションを周回するもなかなか簡単には当たりません。そのうち飽きた次女Mが違うアトラクションに行きたがり、両親はそれについて行くため私は三女Nを抱えて一人周回することに。

 

もちろんなかなか当たらず、半泣きで周回し続け、受付のスタッフさんに「機械でランダムになってるから自分たちはなにもできへんねん、ごめんね」と謝られるしまつ。お昼を過ぎても当たらず夕方4時を過ぎてやっと1等を引くことができた時には人目をはばからず号泣しました。

 

もちろんゲットしたぬいぐるみは次女Mのものとなり、私が感謝されることもありませんでした。